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台北旅行記(その36) 少数民族
c0001491_1291992.jpgおみやげに買ったTシャツについていた絵はがきです。

布農族打耳祭の様子とありますが、解説の中国語はあんまりよく理解できません。

豊作のお祈りのために鹿の耳を打つ祭りのようです。


漢民族が移り住んでくる前まで、台湾に住んでいた人たちはマレー・ポリネシア人たちでした。この島の南半分は熱帯であります。そこに南洋の人々が狩猟・採集生活を営んでいたのは自然なことだったのでしょう。

17世紀になると、大量の漢民族が経済難民として台湾に押し寄せてきます。彼らは平地を開拓して農地に変えていきました。先住民との間には激しい争いが争いがあったものの、数に劣る先住民は、次第に山地や離島に追いやられていくことになります。

戦前の日本人には「高砂族」と呼ばれ、戦後は「高山族」と呼ばれましたが、現在では彼ら自身が誇りを持って「原住民」と名乗っています。阿美(アミ)、卑南(ピナン)、鄒(ツォウ)、排湾(パイワン)、魯凱(ルカイ)、泰雅(タイヤル)、賽夏(サイシャット)、布農(ブヌン)、雅美(ヤミ)の9の部族に分かれていて、それぞれ数千から数万人の人口がいます。このほかに平埔族という部族がありましたが、彼らは漢民族に同化してしまったために、先住民には数えられません。明朝の官吏として台湾に送られたものの、大陸が清朝になってしまって帰れなくなり、先住民と結婚した男性が多かったという事情もあるとききます。

タイヤル族は勇猛果敢で知られ、一時北部を支配したスペインを追い払ったのも彼らでありました。また、日本統治時代に霧社という場所で武装反乱を起こし、日本人全員を虐殺し、日本当局から報復として15才以上の男性が全滅させられるという霧社事件を起こしたのも、この部族であります。

さかのぼって1871年、宮古島から遭難して台湾にたどり着いた34人の日本人がパイワン族に虐殺されるという事件がありました。明治政府はこれを交渉材料として、琉球(沖縄)の支配権を清朝からせしめています。

日本による植民地支配中は、先住民も徹底した日本化政策の対象となり、戦時中には日本兵として南方戦線に送られました。このように、日本との関係は良くないことが多かった先住民たちですが、もともと彼らは部族間の共通語を持たなかったため、戦後も部族間のコミュニケーションには日本語が使われているのは皮肉なものです。日本語が「国際共通語」として使われている唯一の例だと司馬遼太郎も報告しています。

一時は漢化が進み、日本化も強いられた原住民ですが、現在では固有の文化を守っていくことが推奨され、観光の対象にもなっています。

台北の市内を歩いていると、時折大柄で色が黒く、彫りの深い顔立ちをした人々とすれちがうことがあります。漢民族の人々も、そうした原住民の存在を自然なものとして受け入れているようです。

台湾の先住民族については、台湾「台湾原住民の文化」 に詳しいです。
by kokoro-no-iede | 2005-07-21 01:31 | To get profit
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